上人物



羅生門の鬼に関する人名

源頼光(ミナモトノヨリミツ)
天暦2年(948年) - 治安元年7月19日(1021年8月29日)
平安朝廷を恐怖させた多くの怪異を武力で撃破する英雄で、最も有名な説話が「大江山の悪鬼退治、酒呑童子との対決」
摂津、伊予、美濃などの国守をつとめた名将。のちに左馬権頭となって正四位下に昇進。 藤原道長につくした。
また清和源氏の血筋。鎌倉幕府を開いた頼朝の六代前、頼信の兄弟。子孫は「摂津源氏」とよばれる。
文武両道に秀で、特に剣術を得意とし、周囲の人望も厚かった。
『太平記』などで「頼光の四天王」と呼ばれる逸材を各地で徴用し、鬼や魔と刃を交える。


頼光の四天王

渡辺綱(ワタナベノツナ)
天暦7年(953年) - 万寿2年2月15日(1025年3月17日)
平安中期の武士。
源頼光の臣で、その四天王とされる。
嵯峨源氏の源融の子孫で、本名は源綱(みなもとのつな)。
武蔵国の住人、源宛(みなもとのあつる、箕田宛とも)の子。
母方の里である摂津国西成郡渡辺(大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺綱と称した。
洛北市原野の鬼同丸、羅生門の鬼、大江山の酒呑童子を退治した武勇の伝説で知られる。
先祖の源融は、紫式部の『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名。
その子孫は渡辺党と呼ばれた

坂田金時(サカタノキントキ)
平安中期の武将。
源頼光の四天王の一人とされる。
実在の人物ともいわれるが未詳。
実在は疑わしいが、藤原道長の日記『御堂関白記』など当時の史料によると、「下毛野公時」という優秀な近衛兵(随身)が道長に仕えていたことは確かである。
この公時が脚色されていったものらしく、頼光・道長の時代から百年ほど後に成立した『今昔物語集』では、公時の名の郎党が、頼光の家来として登場している。
公時という名は南北朝期成立の「大江山酒天童子」にも四天王として登場している。
現在の金太郎伝承が完成したのは江戸期であり、浄瑠璃や歌舞伎を通して頼光四天王の怪力童子のイメージが定着していった。
伝承では山姥の子で相模国足柄山で育ったという。
幼名を金太郎、また浄瑠璃・歌舞伎では快童丸という。
息子の坂田金平は「きんぴらゴボウ」の名の由来になったらしい。

卜部季武(ウラベノタケスエ)
平安後期の武将。
源頼光の四天王の一人。

碓井貞光(ウスイノサダミツ)
天暦8年(954年) - 治安元年(1021年)
平安中期の武将。
源頼光の四天王の一人。
碓氷峠(群馬県碓氷郡松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠)付近の生まれとされる。

藤原保昌(フジワラノヤスマサ)
天徳2年(958)-長元9年(1036)
平安中期の廷臣。
頼光とは一緒に酒呑童子を倒しに行った仲。
左馬頭。南家藤原氏。
武芸にすぐれ、盗賊袴垂保輔を畏伏させたという。
歌人としても著名。
和泉式部は妻とも言われている。
平井保昌(ほうしよう)とも。
※出展によっては頼光の甥ともいわれます


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