去る程に 渡辺の源次綱は、九條羅生門にて、鬼神の腕(かひな)を切取りつつ、武勇を天下に輝かせり
去りながら、かかる悪鬼は七日の内に、必ず仇をなすなりと、陰陽の博士、晴明が勘文に任せつつ
綱は七日の物忌みして、仁王経を読誦なし、門戸を閉ぢてぞゐたりける
既に東寺羅生門の、鬼神の腕を切取りしこと、是れ偏(ひとへ)に、君の御威徳ならずや、然るに晴明が勘文に従い、あら気詰まりの物忌みやな
かかる所へ津の国の、渡辺の里よりも、訪ねて伯母のきた時雨 紅葉の笠も名にめでて 錦をかざす故郷の 老の力や杖つきの、乃字の姿をも うしとは言はで惹かれつ る、綱が館に着きにけり
門の外面に佇みて
如何に綱、津の国の伯母が遙々参りたり、此門開き候へ、疾くあけ召されい
内には綱の声高く、遙々との御出でなれど、仔細あって物忌みなれば、門の内へはかなはず候
なに門の内へはかなはぬとな
是非に及ばず候
あら曲もなき御事やな 和殿が幼き其時は みづから抱き育てつつ 九夏三伏の暑き日は、扇の風にて凌がせつ、玄冬素雪の寒き世は 衾を重ね暖めて、和殿を綱とは言はせしこと、あア皆みづからが恩ならずや、恩を知らぬは人ならず、エヽ汝は邪険者かなと、声を上げてぞ泣き給ふ
さしもの猛き渡辺も、飽くまで伯母に口説かれて、是非なく門を押し開き、奥の一と間に 請じける
(伯母を敬ひ頭(かしら)を下げ、さても只今は、不思議の失礼仕りて候、先ず御酒一献きこし召し、其後御曲舞を所望申し候
 目出度き折なれば、舞はうずるにて候
 御酒の機嫌をかりそめに、差す手引く手の末廣や
 あら面白の山廻り
 先ず筑紫には彦の山 讃岐に松山降り積む雪の白峰 河内に葛城、名に大峰、丹波丹後の境なる、鬼住む山と聞こえしは、名も恐ろしき雲の奥
 なつかしや)
いやとよ綱、鬼神の腕を切り取られし武勇のほど、凡そ点火に隠れなし、してその腕は何れに在りや
即ち是にと唐櫃の、蓋打ち明けて、伯母の前にぞ直しける
其時伯母は彼の腕を、ためつ、すがめつ、しげしげと、眺め眺めて居たりしが、次第次第に 面色変り 彼の腕を、取るよと見えしが忽ちに、鬼神となつて飛び上がり 破風を蹴破り現れ出で、あたりを睨みし有様は、身の毛もよだつ ばかりなり いかに綱、我こそ茨木童子なり、我腕を取返さん其為に、是迄来ると知らざるや
綱は怒りて早足を踏み 斬らんとすれども、虚空に在り 如何かなして討取るべしと 思へど次第に黒雲おほひ、鬼神の姿は消え失せければ、彼の晴明が勘文に、背きしことの口惜しさよ、なほ時を得て討ち取るべしと、勇み立つたる武勇の程 感ぜぬ者こそなかりけれ

浄瑠璃・傾城酒呑童子や歌舞伎・茨木の元となったもの。
明治二年、杵屋勘五郎作
さらにこれは寛保元年(1741)江戸中座上演「兵四阿屋造」を元にしたと思われる。
ただ歌舞伎・茨木の元として「茨木」という長唄もあったようだ
この茨木とは謡曲写しの代表曲で慶応2年(1866)作
詳細不明

『総合日本戯曲事典』 河竹繁俊編 平凡社
『歌舞伎事典』 服部 幸雄(他)編 平凡社
『長唄全集(上)』 中内 蝶二(他)編 誠文堂

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